夜桜冬花のひとりごと

日常で思ったことを綴ります

好きなものを好きだということ

こんにちは、夜桜冬花です。

しばらくサボっていました。お久しぶりです。

 

実は先日、あるアイドルのライブに行ってきました。人生初ライブです。コロナ禍での開催だったので、席を開けて座ったり声が出せなかったりと、おそらく通常のライブとは違う開催方法だったと思うのですが、とても楽しかったです。会場に向かう時から心が落ち着かず、会場では感動で涙が出てきて、終わった後もしばらく余韻が残り続けました。推しって尊い存在ですね......。

 

さて、今回は好きなものを好きだということについてです。

皆さんは好きなものがありますか?芸能人でも、趣味でも、人・ものでも何でも構いません。自分が好きだと思うものを心の中で思い浮かべてみてください。そして、それをどれだけ他人に公開できているかどうか考えてみてください。中には、自分の全てをさらけ出せる人もいるかもしれませんが、好きなものを好きだといえないという人も多いのではないでしょうか。

最近ではあまり聞かなくなりましたが、ネット上では「にわか」という言葉をよく聞きました。ファンの中では「古参」が一番偉くて「新規」には語る価値がないというような風潮があったように思います。(実際はそんなことはないんですけどね) 「にわか」という言葉はネット用語で、その物事についてよく知らないのにそれについて語ったりファンを自称したりするというような意味があります。それをこれからファンになるかもしれない「新規」の人たちに対しても使ってしまったがために、新規ファンが増えなくなってしまったというようなこともあるのです。

この現象こそ、「好きなものを好きといえない」ことにつながっていると思うのです。

私自身、好きなものを好きだということは苦手です。それはこの現象が原因となっていると思います。私が初めてネットに触れた時、Youtubeを通して知ったあるキャラクターがいました。もちろん知った当時はそのキャラクターについても作品についても全く知識がなく、ネタなどについてもあまりわかっていませんでした。ですが、私はそのキャラが好きでしたし、よく知っている人からもっと知りたいと思っていました。ただ、そのYoutubeのコメント欄では上で書いたようなにわかに対する強い当たりが多く、新規ファンが好きだと言える環境はありませんでした。

新規ファンが増えることは本来嬉しいことのはずなのに、勿体無いですよね。

 

「世の中上には上がいる」という言葉があるように、自分が好きなものに対しては自分以上にそれを愛している人がいると思います。どんなに好きなことでも自分はこれを世界一愛していると断言できることはないでしょう。最初に述べた私が最近好きになったアイドルに関しても「古参」からすれば私は「新規」ですし、もっと最近好きになった人からすれば私はその人よりは古くから知っているということになります。また、「古参」の中でも好きの度合いは違うでしょう。

「新規」か「古参」か。そんなことで好きの度合いが測られるのはおかしいと思います。確かに「古参」の方がそれについての知識は深いかもしれません。しかし、「新規」だからと言って好きの度合いが低いわけでもありません。ただ知るのが遅かっただけです。

私は、アイドルが好きです。音楽も好きです。小説を書くことも好きですし、読むことも大好きです。きっと、それぞれの分野で私より好きな人はたくさんいるでしょう。でも、他人と比べる必要はありません。大事なのはあなたがどれだけそれを好きでいるか。他人に否定されようと、何を言われようとそれが好きなのであれば、新規であろうと古参であろうとあなたは立派な大ファンです。

新規の人も古参の人もみんなで好きなものを好きだと言えるような環境を作っていきたいですね。誰であろうと、それを好きな人はみんな「ファン」なのですから。

もしも世界の終わりを知っていたら

こんにちは、夜桜冬花です。

 

今年の3月頃に小説家になろうで投稿した短編小説「世界の終わりを」 読んでいただけたでしょうか?読んでない方はぜひ読んでください。(唐突な宣伝)

 

「世界の終わりを」夜桜冬花-小説家になろう

https://ncode.syosetu.com/n7028gv/

※「世界の終わりを」のネタバレを含みます。読みたい方は先に読むことをおすすめします。

 

さて、今日は「世界の終わりを」の世界で私が主人公ならどうするかな?という考察(妄想)です。

 

短編小説「世界の終わりを」は二部構成で、前半が、男性目線の「僕と君の7日間」 後半が女性目線の「私とあなたの7日間」となっています。

世界の終わる日を知っていた僕と、世界の終わりを知っていた私。終わりを想い恋をしてこなかった二人が、残された一週間で互いに惹かれ合い恋をするという物語です。結局二人とも伝えられず両片思いのまま終わってしまうのですが。

 

私が主人公だったなら。この物語には二人の主人公がいるので、それぞれの立場でifの世界を体験してみようと思います。

もし私が「僕」だったなら。彼はきっとクラスの中心にいる人物だけど人見知りといった人物です。そんな彼は世界が終わる一週間前、「私」に出会い告白をします。もし私が彼だったなら、世界があと少しで終わることを知っていて彼女に告白することができるでしょうか。終わることがわかっていて、あと数日で別れることがわかっているのに、彼女に想いを伝えられるでしょうか。私ならきっと無理です。彼はすごいですね。きっと、なんとしてでも彼女と世界の終わりを共にしたいという想いが彼を動かしたのでしょう。

もし私が「私」だったなら。どうでしょう。彼からの告白を受け入れるでしょうか。例え終わることがわかっていても、知らないふりをして付き合って楽しんだ方が幸せな気がします。

 

と、妄想を垂れていますが、実はこの物語の「私」のモデルは私自身なのです。この小説を書いて投稿していたのが今年2021年の3月ごろ。ちょうど半年前くらいです。時が経つのは早いものです。私自身がモデルのはずなのに、半年後には違うことを言っているという……。人の心は移りゆくものですからね。仕方ありませんね。

半年前。あの頃は他にも小説を書いていて終わったら投稿できるようにと頑張っていたのですが、あの時書いていた小説はいまだに書き終わっていません。半年経ったのに不思議です。来年の3月ごろには書き終えて投稿できるように頑張ります。

 

ということで、今回は私の妄想垂れ流し回でした。いかがだったでしょうか?

小説を読む上で一番楽しいのはifを考える時間だと私は思っています。もし私だったら、もしこんな設定だったらと妄想していくのです。そして、そのifが混ざり合うことによって自分のオリジナルの物語が生まれる。もう忘れましたが、この物語もおそらくどこかからインスパイアされて生まれた物語です。このブログを読んでくださっているあなたも、妄想を膨らませて自分だけの物語を作ってみてください。

 

追記

このブログを書くうえで改めて自分の小説を読み直したのですが、私のクオリティとは思えないほど細かな設定が散りばめられていました。過去の自分に負けないように、そしてもっとクオリティを高められるように頑張ります。

「許す」ことの必要性

こんにちは、夜桜冬花です。

 

今回のテーマは、前回に引き続き「人間関係」 前回少しだけ話した「嫌がらせ」に対する謝罪を受け入れることの必要性についてです。

 

嫌がらせ、そしてそれが発展したいじめ。ニュースで取り上げられるような大きなものや教師にも気づかれないような小さなものまで、さまざまなものがあります。そして、教師にバレたらほぼ間違いなく、謝罪をさせようとします。高校以上になると義務教育ではないため、校則によっては即退学などの処罰がなされることがありますが、中学までの義務教育はそこまで重い罰はありません。謝罪して終わり、加害者側が反省している素振りを見せたら終わりです。教師たちはそれが正しいと思っているし、それ以上のことをしようとはしません。(現状がどうかはわかりませんし、全ての教師がそうであるとは思っていませんが。)

「クラスメイトと仲良くしなさい」「謝ったんだから許してあげなさい」その言葉にどれだけの意味があるのでしょうか。教師に言わされた「ごめんなさい」にどれだけの意味があるのでしょうか。所詮、いじめられた側の気持ちなんて、いじめられた側にしかわかりません。同じいじめられた側の人間でも、程度が違えばわかりあうことは難しいでしょう。その気持ちを、加害者側の人間や教師たちにわかってもらいたいという気持ちはありません。理解しようとしてもできないでしょうから。ですが、その気持ちはわからなくとも、仲良くすることを、謝罪を受け入れることを強要しないでほしいのです。

 

上辺だけの謝罪。社会に目を向ければ至る所に溢れています。炎上したからとりあえず謝っておく、不特定多数の人間の「許し」を得るために謝罪の言葉をいう。全部、上辺だけの言葉です。本当に心から謝罪する人なんてほとんどいないと思います。謝罪の言葉を声として発しているだけ、謝ったんだと自分で思いたいだけの自己満足の言葉です。きっと、その謝罪をした人は数ヶ月後、数年後にはさっぱり忘れています。

いじめの加害者も同じ。何度被害者側が訴えたとしても、数年後には記憶の片隅にも残らず、きっとどこかで笑っています。被害者側の傷なんて気付くこともないでしょう。それでも、傷は残り続けるのです。どれだけ忘れようとしても忘れられない記憶。どれだけ記憶の奥底に閉じ込めても、何かがあるたびに顔を出してくるのです。

そして、彼らはまた別のところで同じことを繰り返します。自分がしたこと、謝罪したことも全てを忘れて。

そんな謝罪に意味なんかあるわけがありません。

 

何度も言いますが、私は許したくないのであれば許す必要はありませんし、関わりたくない人がいるのなら関わらないでいいと思います。嫌いな人は嫌いでいいのです。無理に好きになる必要はありません。この人合わないなと思った人は多分、相手も合わないと思っています。私は今でこそこのような考え方ができるようになりましたが、子供の頃はクソ真面目に大人の言うことを信じていました。子供にとって、教師や親などの大人は世界の全てであり、それを信じるしかありませんから。もし、私に将来子供ができたなら、例え私以外の大人が他人と仲良くすることを強要したとしても、少なくとも私は「嫌いな人は嫌いなままでもいい」と言えるような大人になりたいですね。

人間関係の好き嫌い

こんにちは、夜桜冬花です。

 

皆さんは好きな人はいますか?嫌いな人はいますか?

今回のテーマは「人間関係」です。

 

さて、私は前回女性を好きになった経験があると言いました。それがLoveかLikeかRespectか分からないとも。どれかはわからないですが、少なくとも私はその女性が特別に好きでした。いや、今でも特別とは言えなくても好きです。

それと同じように、私には特別に嫌いな人がいます。関わらなくていいなら関わりたくない、できるなら私の人生に登場して欲しくない。そんな人です。

 

今回のタイトルは、「人間関係の好き嫌い」と表現しましたが、人間関係の好き嫌いは食べ物の好き嫌いと同じような気がするのです。

私はトマトが嫌いです。出されても食べたくないですし、できるなら視界に入って欲しくないです。トマトには申し訳ないですが。しかし、トマトケチャップなどは嫌いではなく、むしろ好きなのです。

私は先程関わって欲しくないほど嫌いな人がいると言いましたが、その人の全てが嫌いな訳ではありません。いいところを探すならたくさん出てきます。ただ、私には合わないのです。

トマトと同じです。トマトのいいところを探すなら、ミニトマトは見た目が可愛いとか、旨味成分が入っているとか。私はトマトが嫌いなのでそんなに出てきませんが、いいところは必ずあります。ただ、トマトが私には合わないだけです。

 

小学生や中学生の頃はよく、クラスメイトと仲良くしなさいとか、喧嘩した時に仲直りしなさいとか言われることが多かったように思います。好きでもない、むしろ嫌いな人間と、仲が良く見えるようにニコニコ笑って、合わせて。疲れますよね。

嫌いなだけならまだいいです。もし相手が嫌がらせをしてくる人間だったら?仲良くする必要がありますか?その嫌がらせが先生にバレて、謝ってきたとしたら、許す必要はありますか?

 

私は合わない人間と無理に関わる必要はないと思います。嫌がらせをしてくる人間が許せないのなら許さなくていいと思います。無理にでも話さなければならない状況になってしまったとか出ない限り、自分からは関わらなくていいと思います。私は自分でご飯を作るなら絶対にトマトは入れません。それと同じです。野菜の好き嫌いはあまり良くないかもしれませんが、人間関係に関しては無理に好きになる必要はないです。合う人とだけ付き合っていけばいいのです。

私が嫌いな人でも、誰かにとって特別で大切な人かもしれない訳ですから。

「普通」の恋愛

こんにちは、夜桜冬花です。

 

前回に引き続き、「普通」についての話です。今回のテーマは「恋愛」、私にとっての「普通の恋愛」について語っていきます。

 

私にとっての普通の恋愛とは、人が異性を好きになって、告白して付き合って、結婚する、というようなものです。告白して振られるかもしれませんし、付き合っても結婚まで行かないかもしれません。正直、そこはどうでも良くて、重要なのは「異性を好きになる」という部分です。

最近LGBTや性的マイノリティという言葉をよく聞くようになりました。男性が男性を好きになったり、女性が女性を好きになったり、男女どちらにも恋愛感情をもったり、恋愛感情はあるけど性的感情はないという人もいたりと恋愛観には様々な分類があります。ニュースなどで話題になることも多く、詳細な意味は知らなくとも聞いたことはある、という人も多いのではないでしょうか。(知らない人はこれを機に調べてみてください) このように、今の世の中では、従来考えられていた男女間の「普通」の恋愛とは違う恋愛について、理解しようという動きがあります。私自身も興味を持ち、1度調べたことがあるので多少の知識は持っていますし、そのような人がいることも理解しています。

ただ、将来私の前にそういう人が現れて、それを告白されたとして、私は受け入れることが出来ないと思うのです。表面的には、そうなんだと言って軽く流すかもしれません。相手を傷つけたくはありませんから、受け入れられないということはおそらく伝えません。しかし、表面上はそうでも、心では納得出来ないと思うのです。もちろん、それは私にとっての「普通の恋愛」と違うからです。

それと同じように、もし私が「普通の恋愛」をしない、出来ない人間だったなら、友達にも家族にもカミングアウトすることは出来ないと思います。おそらく、好きになった相手にも。それは、私自身が「普通」でない恋愛を受け入れられないから。私自身が私を受け入れられないのです。「普通」でないことを認めたくない。「普通」でない人間だと思われたくない。「普通」に生きていきたい。きっとそう思ってしまいます。

 

私は1度女性を好きになった経験があります。それがLoveだったのかLikeだったのか、それともRespectだったのか、今となっては分かりません。ですが、少なくとも私にとって相手の女性は特別で大切な人でした。友達と恋バナをしていて、私の好きな人の話になって。私はその友達を親友だと思っていましたし(今でも思ってます)、そのような偏見はないと思っていたので、正直にその女性について話しました。すると、時間が止まったように友達は固まりました。何か言われたわけではありません。ただ、その時から女性が女性を好きになることは「普通」では無いんだなと感じるようになりました。そして、それ以降女性を特別に好きになったとしても言えなくなりました。

今思えば、直接言われたわけではなくても日常で「普通」という言葉を聞く機会や「普通の恋愛」を感じる場面は多くありました。小学生の時に女性の先生が言っていた「私は男性が好きだから普通だ」という言葉、友達との恋バナで聞く男性に対する好意。何気ない言葉かもしれません。おそらくその先生にも友達にも悪気はなかったと思います。ただ、無意識に世の中での「普通」を決めてしまっていたのです。

 

どんなに理解が進もうと、一度持ってしまった偏見は簡単には変えられません。世の中に色んな恋愛観を持つ人がいるのと同じように、その恋愛観を理解できない、または理解していても受け入れられない人は少なからず存在します。世の中にとっての「普通」は存在しません。あるのは、それぞれの人にとっての「普通」のみ。私にとっての普通とあなたにとっての普通はおそらく違うでしょう。私はあなたにとっての普通が理解できないかもしれませんし、受け入れられないかもしれません。問題なのは、自分の普通をあたかも世の中の「普通」として表現してしまう言い方なのです。それぞれの普通が違うことを理解し、自分の普通が世の中の普通でないことを認められるようになれば、もう少し住みやすい世界になるのではないでしょうか。

「普通」を求める人生

こんにちは、夜桜冬花です。

 

「普通はこうでしょ」とか

「普通ならそんな事しない」とか

よく「普通」という言葉を聞くことがあります。

私はこの「普通」という言葉が嫌いでした。

 

「普通」とは何なのでしょうか。平凡、一般的、凡庸。いろんな言葉で言い換えることのできる言葉です。ある集団の中で大部分の人が持つ性質のこと。もし、普通とは何かと聞かれたら、私はこう答えるでしょう。しかし、私は「普通」とはそれだけではないように感じるのです。

 

最初に述べた「普通」という言葉を用いるセリフ。私は両親からも学校の先生からも、言われた記憶はありません。両親は私のやりたいことを、学びたいことを応援してくれていた(とおもいます)し、学校の先生も私のやりたいことを否定することはありませんでした。両親に反対されたり、経済的にできなかったりする人も世の中にはいる中で、私はとても恵まれていたと思います。しかし、「やりたいこと」を学ぶために入った大学で、勉強していくにつれて、「やりたいこと」であったはずのことは、今の私にとって本当にやりたかったことではないと感じるようになりました。興味を持つものが変わったという考えもありますが、きっとどの大学に行っても私は同じようになっていたと思います。

前回話した通り、私は「それが普通だから」という理由で高校、大学に進学しました。 普通とは、「ある集団の中で大部分の人が持つ性質のこと」 私は先ほどそう述べました。とすると、高校、大学に進学することは「普通」なのでしょうか。日本の高校への進学率は90%を超えていますから、それが普通であるとは言えるでしょう。それでは大学は?日本の大学への進学率はそこまで高くありません。確か50%を少し超えるくらいだったと思います。さて、この場合、大学に進学することは「普通」なのでしょうか。(高校・大学の進学率に関しては、以前耳にした情報を元に書いているので正確な情報ではない場合があります。詳細を知りたい方は自分で調べてみてください。)

私が通っていた高校は、自称かどうかはともかく進学校でした。クラスメイトは皆、どこかの大学に入学するために日々勉強し、センター試験を受けるのはほとんど当たり前で受けない人は推薦で受かった人くらいでした。少なくとも、私が所属していたクラスという小さな集団の中では大学に進学することは「普通」でした。

しかし、周りを見ればそれが普通ではない人たちもいます。高卒で就職したり、専門学校に行ったり、はたまたニートになったり。その人たちから見れば、普通でないのは私たちであり、その人たちにとっての「普通」はその人たち自身なのです。

私には大学進学をしないという選択肢もありました。大学進学をしないと言っても別の道できちんとやっていけるなら、私の両親は反対しなかったと思います。また、仮に両親が反対したとしても、反対を押し切って、別の道に進むこともできました。それをしなかったのは、両親に反抗する勇気がなかったという理由もありますが、それ以上に大学に進学するという私にとっての「普通」を私自身が求めてしまったからだと思います。そして、「普通」を求めてしまった結果、自分の人生に納得できなくなってしまったのです。

 

小説を書いていること、オリジナル曲を作ってYoutubeに投稿していること、このブログを書いていること。私の両親は知りません。小説を書きたいとか、作曲したいとかは言ったことがありますが、まさかもうすでに投稿したことがあるとは思っていないでしょう。私はこの活動のことを一生両親には話せないと思います。これが、私にとっての「普通の人生」ではないから。どんなに頑張っても「普通」を求める人生から離れられないと思います。

もし、私がとんでもなく馬鹿で知性がなくて度胸だけはある人間なら、周囲の言葉に耳も貸さず、「普通」なんて考えず、ただやりたいことだけを楽しむ人生になっていたと思います。しかし、残念ながら「普通」を気にしてしまう人間になってしまった。私はきっとこの先も「普通」を気にしながら生きていきます。それが自分を苦しめると分かっていても。それでもいつか、自分のやりたいことはこれだ、これが私にとっての「普通」なんだと胸を張っていえるようになりたいです。

知識の波に呑まれて

こんにちは、夜桜冬花です。

 

前回、百人一首の勉強から日本史の勉強にハマったという話をしました。今回のテーマは、「勉強」についてです。

 

私は小さい頃から勉強が嫌いでした。地頭が良かったのか、兄弟の影響か、学校で習う前に既にできることが多く、授業はいつも退屈でした。もう既に習得してる算数の計算を何度もやらされたり、漢字を何回も書かされたり。私は意味の無いことが嫌いなので、作業とも呼べるような宿題が嫌いでした。(もしかしたら、あの宿題にも意味があったのかもしれませんが、少なくとも当時はやる意味が分かりませんでした)

私は中学受験をしなかったので、高校受験が初めてだったのですが、その受験勉強も嫌いでした。おそらく、勉強しなければならない理由や高校・大学に行かなければならない理由が分からなかったのです。高校も大学も、みんな行っているから、それが「普通」だから、という考えで受験しました。

その結果、課題に苦しめられることになりました。やりたくもない課題を毎日毎日、1つ課題終わらせると次の課題が出て、また1つ終わらせると次の課題が……。もう、無限ループです。地獄です。

課題が嫌で嫌で仕方なかった私は、趣味に逃げました。小学生の時は友達と遊んで、中学生の時は図書室に籠って読書して、高校生の時はYouTube見てゲームして……。趣味で勉強するなんて真っ平御免、大嫌いな勉強は学校だけでいい!と思ってました。

 

2020年の春休み辺りにコロナが流行りだして、春休みが伸びてオンライン授業になって、暇な生活を送っていました。今考えると怠惰な生活を送っていたなーと思います。昼まで寝て、適当に授業受けて夜遅くまでゲームする生活。やばいですね。そう、やばいと思い始めたんです。

そこで始めたのが冒頭で話した百人一首の勉強だったのです。あんなに勉強嫌いだった私がなぜ勉強する気になったのか今でも分かりません。ただ急に学びたいと思ったのです。

そこからはもう大変でした。タイトル通り、「知識の波に呑まれた」のです。百人一首をやってたら日本史が気になりだして、古文にも興味が出てきて。漢字や心理学にも何故か興味が湧いて。今ではもう全てを勉強することが出来ないくらい興味のあることが増えてしまったのです。

夜桜冬花として活動を始めたのもこの時期でした。と言っても、自分で名乗ってるだけで誰にも公表はしていませんでしたが。創作活動に関連して、音楽理論や動画編集、イラストなどにも手を出すようになりました。(イラストは途中で挫折して断念)

 

何故ここまで勉強にハマったのか。おそらくネットで検索できる状況が常にあったからです。日常生活で少し気になることがあったら、スマホでもパソコンでも直ぐに調べられるのです。そして、調べていくとまた新しいことが気になる。そしてまた……。これまた無限ループです。でも、この無限ループは確実に地獄ではありません。どこで活用するか分からない知識でも、頭の中に新しい知識が入ること自体が楽しいのです。(やらされる勉強は今でも嫌いですが)

 

「人は一生勉強し続けなければならない」という言葉をよく聞きます。社会情勢は変わっていきますし、ITやAIなど新しい技術が増えていって、色々なことが変わっていきます。何も新しい知識を入れずに生きていく、というのは難しいように思います。勉強しなければならないというと、とても億劫に感じますが、多分生きていれば自ずと学ぶ機会があると思います。

もし、今あなたが何かをしたいと考えているなら、何かを学びたいと考えているのなら、それはチャンスです。学んでください。何でもいいのです。自分の興味のあること、やりたいこと。利益よりも自分の興味を優先してください。興味がなくなったらやめてもいいのです。学びたいことがないのなら、ネットの海に飛び込んでみてください。知識の波に飛び込んでみてください。きっと新しい発見があるはずです。