夜桜冬花のひとりごと

日常で思ったことを綴ります

「許す」ことの必要性

こんにちは、夜桜冬花です。

 

今回のテーマは、前回に引き続き「人間関係」 前回少しだけ話した「嫌がらせ」に対する謝罪を受け入れることの必要性についてです。

 

嫌がらせ、そしてそれが発展したいじめ。ニュースで取り上げられるような大きなものや教師にも気づかれないような小さなものまで、さまざまなものがあります。そして、教師にバレたらほぼ間違いなく、謝罪をさせようとします。高校以上になると義務教育ではないため、校則によっては即退学などの処罰がなされることがありますが、中学までの義務教育はそこまで重い罰はありません。謝罪して終わり、加害者側が反省している素振りを見せたら終わりです。教師たちはそれが正しいと思っているし、それ以上のことをしようとはしません。(現状がどうかはわかりませんし、全ての教師がそうであるとは思っていませんが。)

「クラスメイトと仲良くしなさい」「謝ったんだから許してあげなさい」その言葉にどれだけの意味があるのでしょうか。教師に言わされた「ごめんなさい」にどれだけの意味があるのでしょうか。所詮、いじめられた側の気持ちなんて、いじめられた側にしかわかりません。同じいじめられた側の人間でも、程度が違えばわかりあうことは難しいでしょう。その気持ちを、加害者側の人間や教師たちにわかってもらいたいという気持ちはありません。理解しようとしてもできないでしょうから。ですが、その気持ちはわからなくとも、仲良くすることを、謝罪を受け入れることを強要しないでほしいのです。

 

上辺だけの謝罪。社会に目を向ければ至る所に溢れています。炎上したからとりあえず謝っておく、不特定多数の人間の「許し」を得るために謝罪の言葉をいう。全部、上辺だけの言葉です。本当に心から謝罪する人なんてほとんどいないと思います。謝罪の言葉を声として発しているだけ、謝ったんだと自分で思いたいだけの自己満足の言葉です。きっと、その謝罪をした人は数ヶ月後、数年後にはさっぱり忘れています。

いじめの加害者も同じ。何度被害者側が訴えたとしても、数年後には記憶の片隅にも残らず、きっとどこかで笑っています。被害者側の傷なんて気付くこともないでしょう。それでも、傷は残り続けるのです。どれだけ忘れようとしても忘れられない記憶。どれだけ記憶の奥底に閉じ込めても、何かがあるたびに顔を出してくるのです。

そして、彼らはまた別のところで同じことを繰り返します。自分がしたこと、謝罪したことも全てを忘れて。

そんな謝罪に意味なんかあるわけがありません。

 

何度も言いますが、私は許したくないのであれば許す必要はありませんし、関わりたくない人がいるのなら関わらないでいいと思います。嫌いな人は嫌いでいいのです。無理に好きになる必要はありません。この人合わないなと思った人は多分、相手も合わないと思っています。私は今でこそこのような考え方ができるようになりましたが、子供の頃はクソ真面目に大人の言うことを信じていました。子供にとって、教師や親などの大人は世界の全てであり、それを信じるしかありませんから。もし、私に将来子供ができたなら、例え私以外の大人が他人と仲良くすることを強要したとしても、少なくとも私は「嫌いな人は嫌いなままでもいい」と言えるような大人になりたいですね。